思い出のスフィンクスを訪ねて

アプリ版のGoogleマップで過去のストリートビューが見れるようになったらしい。

その情報をキャッチしたわたしがアプリを開き真っ先に降り立った場所は、とあるアミューズメントパークの前であった。

 

気付けば4年近く地元・沖縄には帰っていないので、故郷に想いを馳せようと試みたとき、掘り起こされるのは大体小学〜高校までの記憶だ。幼い頃よく行った駄菓子屋、玩具屋、スーパー、そしてゲーセン。足繁く訪れた遊び場は、2022年8月現在、軒並み跡形もなく潰れてしまった。せめてわたしの記憶の中だけでもあの頃のまま、、そう願っても思い出の中の街並みは今やもう色褪せ、ピンボケしたスナップ写真のようだ。

しかしその薄れゆく記憶の中で、未だ鮮明にその姿が目に焼き付いてるものがある。

スフィンクス」である。

そのスフィンクスはエジプト・カイロではなく、たしかに沖縄の片隅に存在していた。

かつてわたしの地元には「和合ファミリーランド」というアミューズメントパークがあった。一般的にアミューズメントパーク、と聞いて真っ先に思い浮かぶのはかの有名な「ラウンドワン」であろう。
しかしわたしにとってアミューズメントパークとは「和合ファミリーランド」なのだ。

その「和合ファミリーランド」の入り口に、前述のスフィンクス像がそびえたっていたのである。

今思えば奇妙すぎるその外観も、幼いわたしにとってはどうでもよく、それよりも和合の楽しさたるや。小学5、6年生のころは、週末になると家族でそろって訪れ、一日中遊び回ったものだ。ゲーセン、カラオケ、ビリヤード、バッティングセンター、屋上にはトランポリン。しかしお世辞にも設備は最新のものとは言い難く、ゲーセンはストリートファイター2や旗揚げゲームなどしかなく、2008年ごろとは思えないラインナップであった。それでも一日中遊び回った。

そんな楽園にもやがて終焉が訪れる。中学にあがり、自然と和合には行かなくなった。家族と出かけることがはずかしくなったのか、それともバスに乗って少し遠出すればもっと楽しい遊び場がいくらでもあることを知ってしまったからか。ラウンドワンの方がボーリングとか色々あるし綺麗だし楽しいし。そう思っていたのかもしれない。とにかく和合には行かなくなり、その存在も心の中で薄れていき、気づいたときには閉店していた。謎のスフィンクスだけを残して。そして大学生になり、暫くぶりの帰省でかつて和合があった辺りの国道周辺を歩いたとき、もうそこにはスフィンクスすら存在しなかった。

だからわたしは、Googleマップで過去のストリートビューが見れると知ったとき、あのスフィンクスにもう一度会いたい、と思った。

アプリを起動させ、ストリートビューの画面で「2010年」という日付をタップする。朧げな記憶をたどり国道沿いを歩く。確かこの辺だったはず、、。

 

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あった。

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いた。

 

顔認識されてモザイクがかかってしまっているが、たしかにあのスフィンクスだ。懐かしい。

記憶の中のそれより一回り小さいが、堂々たる佇まいである。

つづけて、「2017年」をタップする。おそらく閉店した後である。

 

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やはり顔には謎のプライバシー配慮がなされているが、閉店してもなおスフィンクスだけはたしかに存在していたらしい。わたしの記憶に相違はなかった。壁の落書きとボロボロになった看板がどこかもの寂しい。きっとスフィンクスはたびたびふざけたヤンキーに跨られたりしたんだろう、以前みられた荘厳さはだいぶ薄れている。モザイクをはずせば「なぜ俺はここにいるんだ?」という苦悩に満ちた表情だったかもしれない。

そして2022年現在。

 

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思い出の地は駐車場になっていた。

建物や入り口のスフィンクスは跡形もなく消え、楽しそうにはしゃぐ子供たちやヤンキーの声が聞こえてくることはなくなってしまった。よくある話だ、思い出の地はしばしば駐車場になったりコンビニになったりする。

よくある話だーーーいくらそう自分に言い聞かせても、ストリートビューに写し出された「15分105円で遊び放題!」の看板と、「6:00〜24:00 60分200円」の看板とを見比べて、わたしはあのスフィンクスがどこかで今も生きていてほしいと、そう願わずにはいられなかった。

ドラゴンボールの2巻

賢明な読者諸君であれば誰しもが一度は、「ドラゴンボールにおけるフェイバリット巻はどれか?」という質問に頭を悩ませたことがあるだろう。

しかし残念ながらその質問はわたしにとっては愚問である。わたしがその質問を第三者から受けたなら、きっとコンマ1秒もかからずに「2巻!」と答えられる。

なぜなら実家にはドラゴンボールの2巻しかなかったからである。

 

わたしが小学2年生のころ、実家の本棚に唯一あった漫画がドラゴンボールの2巻であった。漫画がそれしかなかったのは親の教育方針とかではもちろんなく、小説や雑誌などの本もそこには存在しなかった。すなわちあれは本棚ではなくただの棚であったはずだが、兄がブックオフで購入したドラゴンボールの2巻が、棚を本棚へと変えてくれた。

そんなこんなで今でも文化的資本とよばれるものが何を指すのかすらよくわからないほどに、文化的生活とは無縁な幼少期であった。

そういえば家にはCDだって1枚もなかったが、TSUTAYAで借りた7泊8日のケツメイシを焼いたCD-Rはあった。母がカーステレオでよく流してくれて、5枚1000円のレンタルでしばしば音楽には触れられた。

わたしが他人の家の駐車場でBB弾を集めていたころ、きっと同級生たちはピアノや習字を習ったりしていたんだろう。彼ら/彼女らのほとんどはその習い事をいつからかやめてしまったが、わたしは今でも駐車場に行くとちょっとだけワクワクするし、地面に落ちているものは誰よりも早く見つけられる。

 

話が逸れてしまった。

ドラゴンボールの話だ。

とにもかくにもわたしのフェイバリットは2巻なのである。冗談じゃなく50回以上は読んだと思う。2巻だけを繰り返し繰り返し何度も何度も。もちろん1巻を読んだことがなかったので、そもそも悟空がなぜドラゴンボールを集めているのかもよくわからなかった。しかし巻頭のあらすじを頼りになんとなく読み始め、何度も読み返すうちに大好きになった。きっと兎人参化のことなんて皆忘れてしまっているだろうけど、わたしはずっと覚えている。夜空の月を眺めるたびに思い浮かぶのは、月で餅をつく兎人参化のことだけだ。

それからしばらくして、兄が友人から借りてきたドラゴンボール全巻がわたしの眼前に姿を表した。ついにあの2巻の続きが読めるという喜びに打ち震えたが、同時に恐ろしくもあった。2巻を読み込みすぎて、それを超えるおもしろさを3巻以降に見出せるのだろうか、と。結局それはただの杞憂であったが、段々と加熱していく悟空たちの闘いを前に、2巻の思い出がやがて薄れていくのを感じてなぜだか少し悲しくなった。

それからというもの、わたしはドラゴンボールの2巻によって歪められた価値観で漫画と向き合っていくこととなる。当時実家にあったノートパソコンでインターネットにアクセスし、集英社の試し読みサイトで片っ端から漫画を読み漁る。そして気に入った漫画の気に入った巻だけを購入する。地道にお金を貯めれば全巻揃えられるような巻数でも、なぜか集める気になれない。フェイバリットの巻だけをひたすら読み返す行為でしか漫画を愛せなくなってしまっていた。

しかしそんな偏愛にもやがて終止符が打たれることとなる。

小学5年生のころ、担任教諭が無類の少年漫画好きであった。先生は教室の入り口近くのスペースに本棚を構え、そこに漫画ブースを作った。漫画から学べることはたくさんあるというその40代男性教諭の信条のもと、サバイバル、拳児六三四の剣、柔道部物語、がんばれ元気、スプリンターなどが並んだ。今思えば平成20年ごろとは思えないラインナップだが、学校でしかも教室で漫画が読める!とわたしたちは狂喜乱舞した。それまでドッジボールしか選択肢がなかった休み時間に、合法的な漫画の登場はまさしく革命であった。

そしてもちろん教室に並ぶ漫画は2巻だけではない。きっちり全巻揃えられた漫画たちは、読む順番待ちが起こるほど大人気で、わたしも例に漏れず休み時間ごとに読みふけった。

かくして1巻から普通に読み進めていく漫画本来の楽しみ方を知ったわたし。

山口先生その節は本当にありがとうございました。あのとき拳児を読んでいなかったら、きっとわたしは歪んだ大人になっていたことでしょう。そういえば拳児2が2020年に連載開始されたことをご存知でしょうか?しかし残念ながら、8話でしばらく更新が止まっているようです。念のためリンク貼っておきますね。ではまた。

1. 第1話 / 拳児2 - 松田隆智/藤原芳秀/佐藤敏章 | サンデーうぇぶり

タイム・マジック!

18年間住んだ沖縄の街に最近よく想いを馳せる。数ヶ月前に全国ニュースでも取り上げられた沖縄警察署襲撃事件は記憶に新しいが、その事件現場がまさに、わたしが18年間暮らした街・沖縄市だ。

あのとき件のニュースを見てすぐ母に電話をかけた。沖縄署で暴動があったらしいねと。母はそうそうと相槌を打ちつつ「そういえば昨日の夜も後ろのアパートで集会があったみたいよ〜」と呆れたように言った。わたしの実家アパートの斜め後ろに隣接したそこは、今も変わらず沖縄ヤンキーたちが生息しているらしい。

思えば昔からそうだった。隣同士のアパートで自然と交流が生まれ、年上年下問わず気づけば仲良く遊ぶようになっていた幼き頃の友人たち。わたしは段々と家にひきこもるようになり彼らはめきめきとヤンキーになっていったことで、学年が違う彼らとは段々疎遠になっていった。わたしが中学に上がった頃には、深夜0時を過ぎても辺りに響きわたる彼らの騒ぎ声に、うちの母はよく文句をこぼした。窓を開けて彼らを怒鳴りつける母を横目に寝たふりをした。目を閉じながらなぜ彼らの家族は彼らを放っとくのかなどと一瞬考えたが、その親たちの顔を思い浮かべると微妙な気持ちになって、全然寝れなくなった。

今ではもう名前も顔もさっぱり思い出せない彼らは元気だろうか。仲間とバイクを飛ばし警察署に集まったりしたんだろうか。確かめる術はない。

 

18年間住んだ街に想いを馳せるとき、沖縄ヤンキーのことを想わずにいられない。小・中・高と公立校に通ったのでオタク女子だったわたしもヤンキーとはそれなりに密接に関わった。小学校時代の友人たちの多くは中学に上がってヤンキーになっていった。大体があまり裕福じゃない子か兄弟が多い子だった。

お世辞にも治安が良く品も良いとは言えない街でわたしたちは育った。決して悪すぎはしなかったと思うが、自分と似たような境遇の子が多かったのはわたしにとってささやかな救いだった。

小学校時代、唯一にして最大の社交場である「第二公園」は小学校から歩いて10分かそこらの場所にあった。連日たくさんの子供たちで溢れ賑わっていた。わたしも例に漏れず毎日遊びに行ったものだが、公園の端っこにあるバスケコートはヤンキーたちのシマだったので決して立ち入らなかった。遊び疲れたら公衆トイレの屋根に登り、ヤンキーたちのバスケを眺めた。バスケ部の兄が第二公園のバスケコートでヤンキーに絡まれたと嘆いていたことを思い出し、こうして眺めてるくらいが丁度いいなと思った。

幼稚園〜小学校1、2年生の頃は毎日のように兄の遊びについて回った。5歳年上の兄は心底鬱陶しそうにしていたが、兄の友人たちは優しく、わたしをかわいがってくれた。皆ゲーセン等の遊び場に行けるお金を持ってるワケもなく、兄の友人が暮らすアパートの駐車場で揃ってデュエルモンスターズ(遊戯王)に興じていた。そこに大抵夕方くらいになると中学生ヤンキーたちがやってきて、遊戯王キラカードを兄たち小学生男子に売り捌くのであった。カード1枚50円か100円そこらであったと思うが、兄はわたしに「買ったこと、お母さんには絶対言うなよ」と念を押してキラカードに目を輝かせていた。兄がヤンキーたちから地道に買い集めた封印されしエグゾディアが5枚揃ったとき、妙な感動を覚えたが、この中学生のお兄さんたちはどこからこのカードを仕入れてるのだろうと不思議で仕方がなかった。今思えばおそらく正規ルートである可能性は低い。時の魔術師のタイム・マジックが成功する可能性よりずっと低い。

自宅以外に停めた兄のキックボードは百発百中で盗まれたし、小学校に玩具やゲーム機の類を持ってきてはいけない理由が先生曰く「盗まれるから」であった。毎日のように誰かのPSPが無くなった。近所のTSU○○YAから万引きした文房具を教室で売り捌くヤンキーたちがいた。近所の駄菓子屋の商品は大体が賞味期限切れだったので誰も万引きしなかった。

つまりそういう街だった。

ある日、自宅アパートの駐車場に停めていた自家用車の窓ガラスが何者かの犯行により割られていた(現場に残った弾痕から凶器はエアガンと判明、しかし迷宮入り)。ある日学校から家に帰ると、自宅アパートの玄関ドアが何者かの犯行により傷だらけになっていた(同じく迷宮入り)。友人宅に遊びに行く道すがら、友人の兄が道路の真ん中で自転車にライターで火をつけている場面に遭遇した(動機不明)。高校生になった兄の友人が、わたしの通う小学校に不法侵入して警察沙汰になった(同じく動機不明)。

つまりそういう街だったんだ。

夏休みは毎日やることがないので友人たちとBB弾を集める旅に出かけた。人んちの駐車場の隅が穴場だった。白よりも黄色や黒の方がレア感があってテンションが上がった。誰もエアガンは所有していなかったので何の意味も無かったが、とにかく他にやることも行くあてもなかった。意味もなくBB弾を集めるよりはヤンキーになる方が健全な気がしたが、ヤンキーとそうでない子の曖昧だった境界線が段々とハッキリしていく内に、BB弾には興味がなくなった。

つまりそういう街でわたしは育った。

そこには何もなかったがすべてがあった。皆今ごろ何してるんだろうな。久しぶりにBB弾でも探しに行こうか。暑い日差しに疲れたらひとんちのマンションのエレベーターホールで勝手に涼んで、休憩してさ。

季節外れの花火

2020年3月23日午後2時過ぎ、わたしは春から就職予定だった内定先に1本の電話をかけようとしていた。

就職のために必要不可欠な資格試験で、合格点まで5点届かず不合格となったことを採用担当者に伝えるためだった。震えながら通話ボタンをタップしたその数分後には無事内定を失っていた。たった5点で私の未来は急に白紙になった。

大学の卒業は決まっていたので、4月から社会に出てどう生きていくのかすぐに決めなければならなかった。卒論を出せなかったとか単位が足りず留年しただとかそういうのに近い大ポカをやらかしたわけだが、一応大学は卒業できてしまったので、まだ1球もブルペンで投げていないのに登板させられる中継ぎピッチャーのような気分だった。

しかし3月の時点では幸運なことに、周りの人のおかげで、1年間バイトで食いつないでバンドに全力を振ることはできそうな感じだった。むしろ就職するよりずっと楽しく過ごせるんじゃないかと思っていた。

ところが4月、5月と、世の中の状況が段々と悪化していく中で、学生時代から続けていたバイト先から、「明日から休業措置を取ることになった」と連絡がきた。こうして働く場所がしばらくなくなった。内定取消になったこともそうだが、仕事って望まなくても案外すぐ失えるもんなんだなと思った。

ずっと家に籠るしかない状況で、バンドも仕事も何もかもからっぽになった。モラトリアムにすら失敗するなんて、わたしは本当に何をやってもダメなんだなと思った。

 

それから1年半以上経った今、相変わらずふらふら適当に生きてるけど、いろんな人のおかげで状況はあの時よりずっといい。

働きながら、家庭を持ちながら、いろんな生活の一部に音楽が確かに存在しているひとたちを見て、ずっと目を逸らしてきた自分の未来とかいうやつをたまに考えるようになった。

学生のころ、働きながらバンドをするということが、わたしには無理だと思ってしまったことがある。

大学4年の冬ごろまで、心の準備がまだ出来ていないからという理由で就職活動を全くしていなかったわたしは、卒業を目前に控えた1月ごろにようやく重い腰をあげ就職活動に乗り出した。

まずはじめに所属する研究室から紹介された福岡の施設にとりあえず見学へ向かった。行きの新幹線の中でなんとなく、自分もこのまま就職して大人になって、いろんなことに折り合いをつけながら音楽をつづけていくのかななんて思っていた。

しかし現実はどうやらそんなにうまくはいかないようだった。

そこの施設はハチャメチャにブラック体制で、就職したら最後、バンドはおろか自分の好きなことなんてとてもできるようには思えなかった。見学しただけなので実際入ってみないとわからないこともあっただろうけど、話を聞く過程で腑に落ちないことがたくさんあったので、絶望しながら熊本行きの新幹線に乗り込んだ。

移動で疲れていたけどシートを倒す気にもなれず、ずっと自分の将来のことを考えていた。働きながらバンドをするということ。そのことの難しさをはじめて眼前に突きつけられて、でももう逃げようがない現実がそこまできていると知った。

さくら403号はスピードを保ったままトンネルに入って、窓の外から景色が消えた。

わたしには無理だ。このまま意思もなく選んだ未来に何があるというのか。そこには音楽なんて欠片も残らないかもしれない。そのときわたしはどうするんだろう。

長いトンネルを抜けたとき、iPhoneが震えて一件のLINEが入った。

バンドではじめての音源制作のためにミックスを進めてもらっていたデータが1曲、届いていた。

イヤホンを耳にはめて、再生ボタンをタップした瞬間、軋んだレールの音は遠のいていった。

 

なぜこのような瑣末な出来事を思い出したかというと、ナバロで出会った人々と交わした、バンド・音楽と生活についての様々な話が胸に残っていたからだ。

いまバンドをやっている学生の悩みを聞いたりして、気持ちはすごくわかるのにうまく言葉をかけられなかったことがある。わたしもまだ何も見えていないから仕方ないと開き直ってもいいんだろうか。まあいいか。けど本当にあのころの気持ちが痛いほど思い起こされて胸がヒリヒリした。

 

胸を打たれた2首の短歌がある。

 

「筆を折った人たちだけでベランダの季節外れの花火がしたい」

「そしてその夜のことを記すため誰かがまた筆を執るといい」

 

千種創一 歌集『千夜曳獏』(青磁社)

 

もし誰かが音楽をやめてしまうことがあったとしても、いつでも戻ってこれる場所があればいい、とナバロの4人目のJCがいつか言っていた。

わたしもそんないつかのために、せめてずっと綺麗にしておこう、ベランダだけは。

 

カメレオンクラブとハム太郎とわたし

サンタクロースがこの世に存在しないと知ってしまったのは、カメレオンクラブのせいだった。

5、6歳のころ、週末になると家族そろってデパートに出かけ、その中のカメレオンクラブで兄とゲームを見て回るのが大好きだった。

なかなか買ってもらえなかったけれど、ディスプレイに陳列されたたくさんのゲームソフトやハードを眺めているとそれだけで楽しかった。試遊機のプレイステーションを遊ぶ兄の横で画面を食い入るように見つめた。

やがてクリスマスがやってきて、兄はサンタクロースからゲームボーイアドバンスをもらった。大喜びの兄と一緒に開封すると、説明書と同封されていた紙に"カメレオンクラブ サンエー具志川メインシティ店"と書かれていた。疑念に駆られたわたしと兄は母に説明を求めた。母はあっけらかんと「サンタさんはカメレオンクラブでゲームを仕入れてるのよ」と言うだけだった。わたしはサンタクロースと仕入れという概念をどうしても結びつけたくなかった。

そのときからだろうか、わたしの目に映る世界が曇りだしたのは。

 

そんなカメレオンクラブで出会ったゲームの中で、最も思い出深いものがある。

"とっとこハム太郎2 ハムちゃんず大集合でちゅ"

である。

www.nintendo.co.jp


言わずもがな、あの大人気アニメ"とっとこハム太郎"のゲーム化第2段の作品だ。

任天堂発売、ゲームボーイカラー/ゲームボーイアドバンス対応のアドベンチャーゲーム

このゲームがすごい。とにかくすごいのだが、具体的にどうすごいのかというと、幼児向けキャラクターゲームとは思えない鬼難易度と、その上で子供から大人までやり込める確かなゲーム性を兼ね備えた神ゲーなのである。

 

まず、ざっくりとゲーム内容を説明すると、

プレイヤーは主人公ハムスター・ハム太郎を操作し、各地にいるハムちゃんずを探し出しハムちゃんず基地に連れ帰るのを目的とする。ステージは全6面でひとつひとつのステージが細部まで作り込まれていて広大。自由度も高く、ハムちゃんず捜索以外にも様々なやり込み要素がある。

ざっくりまとめるとこんな感じだが、このゲームを語る上で外せない最大の要素が、

"ハム語"である。

要するにハムスター世界で交わされる言語なのだが、これがこのゲーム攻略のいちばんの鍵となる。ハムちゃんず捜索に加え、このハム語コンプリートが本作の2大目的である。

ハム語は全86種類で、ハムちゃんず捜索の過程で様々なハムスターから教わり、習得していく。

本作の鬼難易度たる所以はこのハム語にあると言っても過言ではない。なぜなら、ハムちゃんずを基地に連れ戻すためには、ステージの様々な場面でハム語を駆使し、順序立ててフラグを踏んで行かねばならないのだ。

まだおおよその世界の順序なんて知る由もない幼児たちが、このフラグ立てに何度つまづき、泣いたことだろう。わたしもその一人である。しかし、そんな数多の涙をも凌駕する面白さがこのゲームにはあったのだ。

 

はむはー、もぐちゅ、あたっちゅ、やーノン、ちーぶる、ちゃいっ、サンちゅ、、、。

 

このハム語たちに少しでも懐かしさを覚える方はいるだろうか。いればぜひ思い出してほしい、ハムちゃんずとして、無我夢中で走り回っていたあのころのことを。

 

幼少期から友達の少なかったわたしは、ハム太郎といっしょにハムちゃんずを探して冒険に出かけるあの時間が大好きだった。

少し大人になった今でも友達は少ないままで、けれどハム太郎と冒険に出かけることはなくなった。あんなに必死になって覚えたハム語も全部忘れてしまった。

ハム語のかわりに知ったたくさんの漢字、数式、化学式、歴史、映画、本、音楽、、。

わたしは勝手に世界のおおよそを知った気になっているけれど、ハム語を知っても全くゲームのフラグが立てられなかったように、わたしの人生は全く持ってうまく進んでくれない。

しかし、ハムちゃんず全員と再会しハム語をコンプリートしたわたしなら、、、。

 

今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよ、ね、ハム太郎

お好み俵おむすびセット

皆さんもご存知の通り、わたしがこの世でいちばん好きなコンビニ弁当は、お好み俵おむすびセット(©️ファミリーマート)だ。

価格は360円(税込)で、内容は至ってシンプルな俵おむすび弁当。一口サイズの食べやすいおかずとこれまた一口サイズの食べやすいおむすびたち。ゆで卵、コロッケ、赤ウィンナー、唐揚げ、海老フライ、ミニ焼きそば。食べる順番を逡巡してしまうくらいオーソドックスなおかずラインナップ。それでも結局おれが主役なんだぜと言わんばかりの俵おむすびの居ざま。

物心ついたときからコンビニでご飯を買う機会があれば必ずこのお弁当を手に取ってきた。しかし現在わたしの生活圏内にあるファミリーマートでは、ほとんどこのお好み俵おむすびセットを見かけることがない。かつて沖縄に住んでいたころは、ファミリーマートに行けばいつだって彼らに会えたものだが。生産ラインが縮小されたのか、違うお弁当にマイナーチェンジされてしまったのか、熊本のファミリーマートへの入荷数が極端に少ないのか。

そんなこんなでかれこれ何年もマイベストお弁当にありつけていないのだが、つい先日思いがけぬチャンスに巡り合えた。

夜中にふと久しぶりに散歩したくなり決めた行き先、熊本駅で。

いや、決めたというと嘘になるかもしれない。ぼんやりと白川沿いの道を歩いていたら、気づけば足がそこに向かっていた。

2時間近く遠回りしながら着いた目的地で、わたしはへとへとになりながらなぜか真っ先に駅構内のファミリーマートに向かっていた。そして辿り着いたレジ前のお弁当コーナーにて、運命の再会を果たした。

お好み俵おむすびセットはどこか照れたように、旨辛仕立てのエビチリ丼やだし香る!ロースカツ丼らに囲まれて、わたしを見上げていた。彼はたくさんの趣向をこらした新作お弁当たちの中で、どこか居心地悪そうに佇んでいた。あのころと何ら違わぬ、不器用で真っ直ぐすぎるお弁当。次々に新たなメニューが展開されるコンビニお弁当業界で、そんな彼はやがて隅に追いやられ、だんだんと居場所を失っていったのだろうか。しかしわたしは彼のそんなひたむきさに惹かれたのだ。

お好み俵おむすびセットを手に取り、見つめ合う。紛れもないマイベストお弁当は本当に何ひとつ変わっていなかった。

しかし、私の方は違った。

自分でもショックだった。数年ぶりの再会が嬉しかったはずなのに、全く彼を買う気にはなれず、力なくお弁当コーナーに彼を置いた。

なぜ?

そう聞かれるかと思った。しかしお好み俵おむすびセットは何も言わず、今度はどこか寂しそうにわたしを見上げるだけだった。

この数年でわたしは少しだけ歳を取り、少しだけ大人になり、セブンイレブンやローソンやデイリーヤマザキに行き、行くその度に違うお弁当を家に連れて帰るようになった。たまにファミリーマートに行っても、ファミチキとおにぎりだけ買って、もはやお好み俵おむすびセットを探そうともしなかった。

気づかないふりをしていたけど、わたしはもうお好み俵おむすびセットのいない世界で、うまく生きていけていた。

最近ではコンビニ弁当を食べることもほとんど無くなってきて、そもそもコンビニ弁当があまり美味しいものじゃないと気付いてしまった。それはきっとお好み俵おむすびセットも例外ではない。

わたしの表情からすべてを悟ったのか、お好み俵おむすびセットは泣きながら笑って、わたしを見送った。

結局何も買わずにファミリーマートを出たわたしは、寂しいような、けれどどこか晴れやかなような気持ちだった。春と夏のはざま、生ぬるい風がわたしの肌を撫でる。大人と子供のはざまで自分の不器用さに苛立っていたわたしを、いつだって満たしてくれたのはお好み俵おむすびセットだった。彼のことを好きだったひとはわたし以外にもたくさん居ただろうけど、彼のことをちゃんと好きじゃなくなったのは、わたしだけだろうな。もしかしたら彼は、最後にちゃんとお別れが出来るように、わたしを熊本駅まで導いたのかもしれない。

 

ありがとう、そしてさようなら、お好み俵おむすびセット。いちばん大好きだったよ。

All Shimmer in a Day 発売によせて

2021年3月3日、ついに世の中に放ちました。

 

気づけば1st EPのレコーディングから約2年近くたってしまった。

この約2年間、ほんとうに色んなことがあって、それはバンドのことでも個人的なことでも社会全体のことでも、ほんとうにたくさんのことが。

 

2019年6月のNAVAROブッキングライブに誘われたとき、すごく嬉しかったのを今でも覚えている。サークル外でのライブははじめてだったので震えながら、当時4曲しかなかったのであわてて“Bootleg”という曲をつくった。

結果、ライブ当日はMCでPAの方の名前を間違えたり堂々と音を外したり対バンの石頭地蔵の爆音にトラウマ級の衝撃を受けたりした。名前を間違えたのでもう2度とライブには誘われないだろうなと轟音で朦朧とする意識の中思った。打ち上げがすごく楽しくて、Doit Science  清田さんとダイムバック・ダレルの話をしたりした。

 

翌日、なんやかんやあってレコーディングをして音源をつくろうということになった。高校生の頃大好きな音楽ブログで知った“talk”のメンバー2人が、Twitter上でMy Lucky Dayのレコーディングの話をしていてこれは夢か?と思った。なんやかんやの大部分はこういった夢みたいな展開の連続だった。

それから2019年の初夏にJun Kawamoto氏のもとNAVAROにてレコーディング、Kensei Ogataさんのミックス・マスタリングのもと完成した5曲入りのEPを2020年5月に自主デジタル・リリースした。ほんとうはフィジカル・リリースしたかったのだが、世の中がとんでもないことになってしまったので悩んだ末Bandcampでのデジタル・リリースというかたちをとった。

 

2020年、コロナ禍でひとり家に閉じ籠る日々の中、色々なことを考えた。バンドマンにすらなりきれないフリーターになり果て思ったのは、わたしたち4人でしかできないことを今のうちにやりきりたいということだった。しかしどうやらきっとその時間は残り少ないであろうということも。

 

2020年10月に観たNAVAROでのtrialerror+Cynicalsmileisyourfavoriteの2マン。ライブ後4人で興奮気味に語り合い、その思いはさらに強くなった。

11月に新曲をレコーディングして、フルアルバムをつくろうと決めた。

制作途中でのライブに、はるばる東京から熊本まで足を運んでくださったTESTCARD RECORDS肥沼さん。ライブの翌日みんなでスリランカカレーを食べながら、リリースの話がまとまっていった。九州の片田舎から東京へ、音楽を通してでしか出会うことがなかったであろうひとたちと作品がつくれることに心から喜びを感じた。

 

リリース、そして熊本〜福岡〜東京でのレコ発。きっと死んでも忘れられないであろう3月がはじまった。

3月いっぱいでBa.仲村が脱退する。先日南の島に帰ってしまった。仲村はたぶん大学に入って最も共にバンドを組んだベーシストだと思う。そもそも軽音部には仲村の誘いで入部したので、My Lucky Dayは仲村がいなければ存在し得なかったバンドだといえる。こんな長ったらしい文章ぜったい読まない人間だと思うので言うけど、今までありがとう。ちゃんと髪洗えよ。

 

17歳のころ、熊本にこんな音楽を鳴らす人たちがいるんだと心を揺さぶられたtalkのふたりと、今のわたしたち4人でしか鳴らせない音を、1枚のアルバムとしてかたちに残せたこと。そして、右も左もわからないわたしたちをリリースまで導いてくださったTESTCARD RECORDS 肥沼さんには感謝してもしきれない。

 

高校生の頃、通学バスの中で毎日聴いたペインズ、ヤックは解散してしまった。わたしは大人になりきれないまま23歳になって、まだ彼らへの憧れを捨てきれずにいる。ギターはいつまでたっても上手くならないし、音楽との上手な向き合い方なんてわからない。

しかし、レイ・ブラッドベリが描いた金星に7年にいちどの夏が訪れたように、1時間だけひらく花のような太陽のきらめきが、今わたしをとりまく音楽に降り注いでいる。