2020年3月23日午後2時過ぎ、わたしは春から就職予定だった内定先に1本の電話をかけようとしていた。
就職のために必要不可欠な資格試験で、合格点まで5点届かず不合格となったことを採用担当者に伝えるためだった。震えながら通話ボタンをタップしたその数分後には無事内定を失っていた。たった5点で私の未来は急に白紙になった。
大学の卒業は決まっていたので、4月から社会に出てどう生きていくのかすぐに決めなければならなかった。卒論を出せなかったとか単位が足りず留年しただとかそういうのに近い大ポカをやらかしたわけだが、一応大学は卒業できてしまったので、まだ1球もブルペンで投げていないのに登板させられる中継ぎピッチャーのような気分だった。
しかし3月の時点では幸運なことに、周りの人のおかげで、1年間バイトで食いつないでバンドに全力を振ることはできそうな感じだった。むしろ就職するよりずっと楽しく過ごせるんじゃないかと思っていた。
ところが4月、5月と、世の中の状況が段々と悪化していく中で、学生時代から続けていたバイト先から、「明日から休業措置を取ることになった」と連絡がきた。こうして働く場所がしばらくなくなった。内定取消になったこともそうだが、仕事って望まなくても案外すぐ失えるもんなんだなと思った。
ずっと家に籠るしかない状況で、バンドも仕事も何もかもからっぽになった。モラトリアムにすら失敗するなんて、わたしは本当に何をやってもダメなんだなと思った。
それから1年半以上経った今、相変わらずふらふら適当に生きてるけど、いろんな人のおかげで状況はあの時よりずっといい。
働きながら、家庭を持ちながら、いろんな生活の一部に音楽が確かに存在しているひとたちを見て、ずっと目を逸らしてきた自分の未来とかいうやつをたまに考えるようになった。
学生のころ、働きながらバンドをするということが、わたしには無理だと思ってしまったことがある。
大学4年の冬ごろまで、心の準備がまだ出来ていないからという理由で就職活動を全くしていなかったわたしは、卒業を目前に控えた1月ごろにようやく重い腰をあげ就職活動に乗り出した。
まずはじめに所属する研究室から紹介された福岡の施設にとりあえず見学へ向かった。行きの新幹線の中でなんとなく、自分もこのまま就職して大人になって、いろんなことに折り合いをつけながら音楽をつづけていくのかななんて思っていた。
しかし現実はどうやらそんなにうまくはいかないようだった。
そこの施設はハチャメチャにブラック体制で、就職したら最後、バンドはおろか自分の好きなことなんてとてもできるようには思えなかった。見学しただけなので実際入ってみないとわからないこともあっただろうけど、話を聞く過程で腑に落ちないことがたくさんあったので、絶望しながら熊本行きの新幹線に乗り込んだ。
移動で疲れていたけどシートを倒す気にもなれず、ずっと自分の将来のことを考えていた。働きながらバンドをするということ。そのことの難しさをはじめて眼前に突きつけられて、でももう逃げようがない現実がそこまできていると知った。
さくら403号はスピードを保ったままトンネルに入って、窓の外から景色が消えた。
わたしには無理だ。このまま意思もなく選んだ未来に何があるというのか。そこには音楽なんて欠片も残らないかもしれない。そのときわたしはどうするんだろう。
長いトンネルを抜けたとき、iPhoneが震えて一件のLINEが入った。
バンドではじめての音源制作のためにミックスを進めてもらっていたデータが1曲、届いていた。
イヤホンを耳にはめて、再生ボタンをタップした瞬間、軋んだレールの音は遠のいていった。
なぜこのような瑣末な出来事を思い出したかというと、ナバロで出会った人々と交わした、バンド・音楽と生活についての様々な話が胸に残っていたからだ。
いまバンドをやっている学生の悩みを聞いたりして、気持ちはすごくわかるのにうまく言葉をかけられなかったことがある。わたしもまだ何も見えていないから仕方ないと開き直ってもいいんだろうか。まあいいか。けど本当にあのころの気持ちが痛いほど思い起こされて胸がヒリヒリした。
胸を打たれた2首の短歌がある。
「筆を折った人たちだけでベランダの季節外れの花火がしたい」
「そしてその夜のことを記すため誰かがまた筆を執るといい」
千種創一 歌集『千夜曳獏』(青磁社)
もし誰かが音楽をやめてしまうことがあったとしても、いつでも戻ってこれる場所があればいい、とナバロの4人目のJCがいつか言っていた。
わたしもそんないつかのために、せめてずっと綺麗にしておこう、ベランダだけは。